読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

拙い言葉の備忘録

月が綺麗ですね。私あなたとなら死んでもいいわ。そして、反省と述懐

長らく思い違いをしていたのだが、「月が綺麗ですね」の正しい返しは「私あなたとなら死んでもいいわ」ではないのですね。

 

そもそも「私あなたとなら死んでもいいわ」ではなく、「私死んでもいいわ」が正確な表示であるし、それを訳したのは二葉亭四迷である。

もっというと、夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳した話は夏目漱石の小説に出てくる話だと思っていた。

 

もはや何が何だかわからない状態である。

しっかりと事実を調査しないで、雰囲気と想像で生きているからこんなことが起きるのだろうと悩み始めた。

 

そんな風に想像と雰囲気だけで生きていると、自分の正しい姿が全く見えずに実力を過大評価しがちになる。

そうなるとなんだか根拠のない自信だけ大きくなり、実力があると思い込んでいるものだから尊大な態度になり、誰もよりつかなくなってくる。

誰も寄り付かないから冷静な意見をもらえなくなるので、ますます根拠のない自信だけが大きくなる。

本来の実力が見えても根拠のない自信が大きくなりすぎているものだから、引っ込みがつかなくなってどうにも立ち行かなくなって動けなくなる。

周りの人間も苦笑いするしかなくなる。

 

さて、どうしたものか。

もしかしたら、この状況が想像の産物でしかない可能性もある。何を信じたら良いのか。

 

そんなことを考えていると、小学生の時にトイレで浮かんだ強い疑問を思い出した。

 

「自分はいま、本当にトイレで用を足しているのだろうか。トイレにいるのは錯覚で実は教室の中にいて、そこで用を足してしまっているのではないか」

 

悩みと疑問が同じ構造になっている。昔からこんなことを考えているのかと呆れてしまった。

 

ただ、中学生以前の過去の記憶はほとんど曖昧で、実際の出来事なのか、当時の自分の妄想の中の出来事だったのか、はたまた直近見た夢の中のことだったか混濁しているので、ずっと考えていることかは定かではない。そして、確かめるすべもない。

他者との接触だけが確認する方法だったのだろうが、それは手放してしまって取り戻しかたも忘れてしまった。

 

おそらく確からしいことは、良い大人になった今でも自分の内側に篭り続けていて、

外の世界と接触することができていないということだろうか。

いつか、外に出る日は来るのだろうか。